思考の考察

幼少期より、考える事は私の唯一の友達でありました

「なんで?」から仮説をいくつか立て、現実的でなければ壊し、また立てて

その物事の本質がある程度見えるまで、それをただひたすら続ける

これが、なかなか楽しいのです

 

 

 

 

語彙力がない為、ざっくりとしたイメージのみで思考をしており

そのイメージを近い言語へと変換する能力が乏しく

他者との意思疎通が上手く出来ませんでした

 

現代のようにパソコンやスマートフォンが普及していないという事もあり

最も重要である最終的な裏付けや答え合わせは一切出来ない状態ではありましたが

いつまでも自分の中であらゆる仮説をあたため続け、年齢を重ねていく毎に

「ああ、こういうことだったのか!」

と納得したり、ショックを受けたり、感動したりしています

これもまた、考える事と同じように楽しいです

 

…………………

 

先程、考える事は私の唯一の友達と書きましたが

自分自身の存在証明に関しては全くの無頓着で、欲もさほどありませんでした

「我思う、故に我あり」を無意識に感じ、そこで存在証明を完結させていた節があります

勿論、デカルトなんか知るわけもなかったのですが) 

 

自己を確立、もしくは切り離した上で考えていたという訳です

この点は他者との感覚とは全く異なるものであるのは幼少期から薄々感じてはいました

 

 

では、他者の感覚は一体どういったものか

ここで奥村隆氏の評論を挙げたいと思います

「思いやり」と「かげぐち」の体系としての社会

 

多少オーバーな表現も用いられていますが、わかりやすく、的確であると感じます

 

 

奥村氏の言葉を借りるならば

私は他者がなくとも存在証明を完結させている、“社会”から逸脱した存在ということです

 

さて、そういった思考が果たして良いのか善いのか、はたまた否か

それはまだまだ考え中であり、生きる楽しみでもあります